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文集

2010年11月 金沢と金沢大学の思い出

栃木市 箕輪内科 箕輪 均

 私は医学部に26歳の時入学した。私が医者として変わり者であるのは本当のことだと自覚しているが、26歳の入学はそのことの説明にいくらかはなっているかと思われる。それでは26歳のそのときまで何をしていたのかいえば、宇都宮高校時代に見失ってしまったものをあらためて見いだすのにそれだけの時間がかかってしまったということだ。26歳の入学のその日までの日々に青春はなかったなどというつもりは全くない。ただ世間並みの人並みの青春が訪れたのは医学部に入学したそのときであった。

私が金沢の街にはじめて降り立ったとき感じたことはここは今までに経験したことのない気象・風土の世界であり、この街は触れたことのない独得の情緒に満たされた街であるということだった。それは明らかに関西文化圏に属するものであったが、かつて修学旅行などで訪れた京都・大阪などとは違いこれから住むという気組み故にことさらにそれを感じ取ることとなった。自分が実は関東人であることを図らずも自覚することとなった訳である。また同時に入学してまもなく1-2日間のことであったが、それなりのホームシックにかかってしまい26歳の自分の幼さにも気付かされることとなった。

ともかくもここまではきたと空見上ぐ 舞い降る雪の静かさ滲みて

つくづくと弱き心と歯を噛みしめぬ 懐郷病と不安のさなか

決して強いとはいえぬ私の心を励ましてくれたのは,8歳下の現役合格者たちであった。まこと、彼らは希望に満ち満ちていた。彼らのはち切れんばかりの自信と自負にあおられて私の医学部学生生活は始まった。

金沢大学医学部はけっこう全国区である.沖縄から北海道までほぼ全県出身者がいる。一番多いのは浪人生で一浪二浪は当たり前三浪もかなりいた。現役生はそれゆえ誇り高かった。浪人生たちは少し大人ぶって恰好をつけていたが、現役生たちを見る目はまぶしげであった。私といえば全てがまぶしかった。浪人生も現役生もそして他大学社会人を経由してここにやってきた大人たちも。私は今でいうフリーターの隠遁生活者としてここに至っており、そういうのは同級生120名の中で私だけであった。現役生にパワーをもらいつつ大人たちに知恵をつけもらうことで私のこのあとの学生生活は成り立つことになる。私のアドバイザーとなってくれた人たちを含む他大学社会人経験者は実に多士済々であった。例を挙げる。

31歳,早稲田仏文中退,小学生の娘が二人いる妻帯者で一家して金沢へ越してきた。私塾の塾長をやっていたが、金沢大学医学部志望の教え子を教えているうちに自分も合格の目があるというので教え子と一緒に受験し自分だけ合格してしまった。野蛮人と綽名されるほどに強健であったが、一方精神分析学・文学の造詣著しく在学中とにかく世話になった。5時間6時間と話し込んだ夜は幾晩あったであろうか。今彼は郷里の信州で精神科勤務医をやっている。

28歳、京大工学部卒、卒後外資系石油採掘会社に就職、オックスフォード語学留学を経て今のミャンマー当時のビルマで石油採掘エンジニアとなった。日本人は彼だけといった環境で暮らしてきた。ビルマの王子とのつきあいが日常であったと自慢していた。富山の奥地にある城端(じょうはな)という村が故郷でしかも庄屋の家系であった。自宅は文化財と言っていいほど立派な作りで縁のない私が相続したくなるような豪邸である。故郷で跡を継ぎ暮らして行くには医者になるのがいいと判断して日本に引き揚げてきた。実は限りなく繊細で自身の美意識に満ちた人で,私にはおよぶことのできない世界に住んでいる人だった。

28歳、京大工学部卒、京大在学中は麻雀に明け暮れ麻雀の玄人といってよいほどで、麻雀に人生を学び、そしてまたそれを人に教えることのできた人であった。私は確率と安全、流れを読む力について雀卓越しに教えてもらった。白山山麓の山村が彼のふるさとであり、その地の僻地医療をになおうと金沢へ入学してきた。そして卒後何年かを経てそれを実現した。

31歳、東大文学部中退,葛飾柴又の生まれである。父親はそこで写真館を営んでいる。お父さんには入学後お会いしたことがあるがさかしげで品がありお公家さんのようであった。彼自身は都内の工業高校を経て三浪して東大に合格、しかし彼の望むものではなかったのであろう、卒業せずに8年東大駒場寮に住み続けた後、理Ⅲは無理と金沢へやってきた。月4万5千円で家賃までまかなう生活は栄養失調などという事態を来たし、誰彼となく援助を求めて暮らしていた。我らの励ましの中なんとか卒業し国試も合格したが、しばらくは医者にならずに旅をすると寅さんよろしく卒然と去っていった。ある意味奇人だが、人間的魅力は十分で時代錯誤な下町漢といったところであろうか。

いまこうして振り返ってみれば彼らとの出会いが金沢での一等大事な思い出かもしれない。現役生や浪人生たちも逸話に事欠かないが入学時26歳になっていた私にとって年上の彼らには学ぶことは多大であったのだ。惜しむらくは彼らとの交友関係が維持できなかったことである。

あの日々に何か忘れてここにいる 心の育つ気配が消えて

貴君らにまたあいたしと思いたり 若さを惜しむ情(じょう)募る夜半(やは)

金沢大学は私が入学した頃にはまだ石川城趾内にあった.医学部は近くの小立野(こだつの)にあったが、教養課程は城趾に通った。隣は兼六園である。あまりに手狭で、たくさんの観光客と学生が混ざり合うのが観光と学業にさわるというので後に角間という金沢の奥地に移転した。私は最初の1年半、歴史と混ざり合って学生生活を送ったわけだが、いい雰囲気であった。自分の大学に誇りを持ち得た日々であったと思う。冬を前にしてしんと静まりかえった空気の中、学生たちが綾なす音が響くのを聴きながら、暮れかかった構内を友人とそぞろ歩いたのが懐かしい。

ある夕にここが我が家と感じけり 秋深まりゆくキャンパスの中

ところで1年目の夏休みは長かった。こんなに休んでいいのかと思うほどであった。その夏休みのはじめに、学内で自然に集合した年寄りたちと千里浜(ちりはま)という海水浴場に行った。金沢から日本海に出て能登有料道路を北上すると能登に行く手前にある海水浴場で、砂浜が硬く車で走れるのが特色であった。海にはいるとすぐに岸に沿って平行に砂州ができていてひどく浅くなるのがおもしろかった。その晩は海の家に泊まって翌日かえってきたが、子供のように遊んだな、騒いだなという感じであった。

空遠し 八年のちの夏休み 少年の如海に遊ばん

どんなふうに雪は降るのだろうか心配しながら冬に備えていたある日、買ったばかりの20万円の中古車をかり出された。私という運転手つきでである。行く先は白山であった。紅葉が立派だから是非見せたいと白山山麓生まれの年寄が案内にたって九十九折りをのぼったのだが、のぼった先に信じられない光景が待っていた。安藤広重の箱根山に似た形を呈する山容の全山これ赤一色で、高くは深紅に染まり、低くは明るい赤であった。緑がほとんど混じらない此の植生は本当に驚異であった。これ以上の紅葉というのが京都にはあるそうだが、スケールの大きさではこの白山に勝るものはないのではないだろうか。

六人の医師の卵の卵のせ三年越しのペイパードライバーゆく

白き山紅葉(もみじ)に染(し)みて聳えたり あたりの峰もなお紅くして

金沢の雪は富山・新潟に比べるとたいしたことはない。もちろん雪国であり兼六園はじめ雪化粧があって一番美しくなる街である。しかしそれだけでは真の冬の金沢を知ったことにはならないだろう。なぜなら冬の金沢の真の価値はいや増す人情の濃さにあるからだ。人と人の距離が急につまっていく、先週まで普通の日本よろしく関心がなかったご近所さんが急に家族のようになっていく。これは富山でも新潟でもきっと同じなのだろうと思う。雪に対抗するに力を合わせることが必須だからだろうが、みなこれを逆に楽しんでいる風がある。ひき替えに春先は人情が荒れるといえるのだけれど……。

雪降りて九谷の色が分かり来る 漆器の香(か)とにぶき輝きも

冬終わり粉塵あげてとびゆきし車の速さに春感じをり

2年目の5月ごろ医科学展-略称イカテン-というのに参加した。市民に医学をというのであるが、結論から言うと北陸のエリートがエリートぶりたくてやった自己顕示であると思う。私はここにエリートというより一個人として個人の興味を追求したくて参加した。金沢大学の歴史の紹介として歴代教授の写真を列挙展示したのである。言語によらず語るものとして教授たちの顔写真を使わせて貰った。同じ興味を持ってくれた仲間が5-6人あらわれてこの企画は実現した。主として私が渉外にあたり教養の学生として教授室を訪ね教授と直に交渉することになった。実は私は11歳の時に父を失っている。そのことがこの企画のおおきな動機になっていたと思う。父とは?教授とは?医学部の権威とは?そんな気持ちで渉外にあたった。渉外の結果何かわかったかといえば実はあまりはっきりしない。何となく自分はこの世界とは深く関わらないほうがいいと思うことでその時は終わった気がする。

教授訪問で一番記憶に残ったのは解剖学の山田教授である。あっさりと趣旨を解してくれて写真が趣味であることなど話してくれた。歴代の教授の写真は標本庫にあるからついてきなさいと学部学生でも滅多に入れない標本庫に教養の学生として入らせて貰った。当然予想していたのであろう、我々が数々の標本に目を奪われても何も言わずに許して下さった。金沢大学医学部の長い歴史の中で形成された標本集成の中には驚くべきものがあり、単眼症には特に度肝を抜かれた。このとき山田教授の教育は既に始まっており、人間の形態とは何であるのかという疑問を生み付けられた気がする。

展示会本番ではたくさんの教授来訪を得て緊張した。一般の見学者もここはわかりやすくていいとたくさん来てくれた。無事展示を終えた時に感じたのはとにかく気疲れしたという虚脱感であった。実際の展示を経て私のうちに生じていった思いは次のようであった。

医療とは母たるにあり 慈しみ癒したらんと父を統べゆく

2年目の秋,山田先生の骨学の講義と試験があった。このときはじめてこの先生がその厳しさ故に医学部全学生におそれられる存在であることを知った。情報音痴も甚だしかったが、不安の中ほぼ満点で骨学に合格できた。

その頃中秋の名月の時期となった。ほとんど雲のない満月に恵まれ、友人と3人で金沢近郊の内灘(うちなだ)海岸に月見に行った。信じられないくらい明るい月明かりに照らされた穏やかな白波と浜は昼間とは全く別の顔であった。何を思ったか葛飾生まれの年寄が流木を集めて積み始めた.たき火をたこうというのである。思いの外大きな流木が多数ありじきに人の丈を超える山になった。しかし火をつけるものがない。百円ライターで丸太に火がつくわけがない。困り果てて笑いあっているときに思い出した。車に買った灯油が積みっぱなしであったのを。ジャバジャバと気前よくまいて火をつけた。すごい勢いで火は燃え上がり少ししめった流木が水蒸気をあげた。一瞬3メートルを越す炎になって1時間以上かけて燃え尽きた。興奮しながらしゃべりあっていい月だ、いい炎だ、とさわぎながら帰途についた。帰路の車の中奇妙にカタルシスを感じてさわやかであった。このときいよいよ始まる学部生の生活と解剖学実習に対する覚悟ができたような気がする。

白きほど明かき月夜浜(つきやはま) この門出祝い祓いて焚き火ぞ燃ゆる

山田先生の解剖学は形態学である。形態を突き詰め比較し、形態の考究に基づいて全ての論理が始まる。これはラテン以降の解剖学の王道である。機能から形態に至るのではない。形態から機能を考える。先生はこの基本的な姿勢を絶対に崩さなかった。比較解剖学者として鯨を追った日々の話。人間を土管と表した東京芸大の解剖学者三木先生の話を冒頭の頃になさって我々の解剖学実習は始まった。山田先生の解剖学には明らかに生命への畏敬があり月並みな言葉だが宇宙の神秘への思いがある。幾分かは宗教的であり、吟遊詩人が詩を吟ずるに似ている。このことに気付きそれに沿い考え讃を与えるとき門は開かれる。門の中に深く踏みいるもの、入り口にたたずむもの、横目に入り口を眺めるもの、実は門に気付きさえすれば山田先生の合格はいただける。しかし全く気付かないものがいる。具体的には解剖学などどうでもよいといった学生であり、献体にあまりに失礼な学生である。教授の許しを結局受けられずに金沢を去っていった学生は相当数におよぶということであったが、我々の学年は全員合格できた。とはいっても午後1時に始まって毎夜2時3時におよぶ実習が半年近く続いた後のことであるが。

8年くらい前であろうか後れ馳せながらインターネットで山田先生が1987年に定年退官し再び捕鯨船に乗って南氷洋にいかれたことを知った。そして更に1994年に72歳で亡くなられたのを知った……。しばしば口にしたようにご自身も献体なさったのであろうか。学生運動に身を尽くし山田先生に進級を阻まれ、許しの条件として解剖学徒となり、山田先生の跡を継いだ児玉先生が解剖したのだろうか。金沢に残ったものに訊けばいいのだろうが、どこか失礼な気がして明らかにしていない。

実は私は解剖学教室に誘われた。実習もそろそろ終わるある日児玉先生がやってきて教室に入らないかという。私は家の貧しかったことをいい開業したいと断った。今この選択は間違いではなかったと思っている。しかし解剖学の道を行ったならどうなっていたであろう……、人生の岐路であったと思う。自らも開業医の子弟である児玉先生の「開業医なんてつまんないよ」という言葉がいまでも焼き付いている。

解剖学実習の書 名著なり そを知るものと知らざるものと

奥底で実習の書に韻律ふと感じたるは吾(あ)のみにあらむか

先生の熱こもりたる声響き伽藍にありやと思う吾(われ)あり

日々増ゆる讃たる声に顔ゆるみ我が師の声は優しさ帯びぬ

嬉々として実習すすむある夜(よ)には 遺体の人らそこに語らい

実習終え最後の授業となりぬれば満ち足りたるはわれらのみでなし

山田先生の已むことあたわざる情熱にひきずられて生理学も厳しかった。しかし一方、金沢大学医学部の生化学は甘くなってしまっていた。薬理学もである。全てを得ることはできないから仕方がないが、臨床実習に無駄が多い気がしてその分生化学や薬理学に当てるべきであったような気がする。私の頃からすると生化学と薬理学の進歩は著しいものがあるから、結局そうなっているのではないかと思う。

学二の後半となりいよいよ臨床実習が始まった。これ以後,患者さんと病棟と講義室と3つしか記憶にない.金沢が消え,学問の純粋さが消え日本全国スタンダードだけが残った。学二と学三と学四の区別が今となってはつかない。学四の自由時間は国試の準備に明け暮れたのは覚えている。そして国試見込み合格者として岐路が再びやってきた。結論から言うと私は金沢に残らなかった。千葉大学第二内科に行った。わけあってそこも1年半でやめさせてもらった。その後下都賀総合病院で6年弱働いて開業した。

この間にいくつもの岐路と誘いがあった。それらの岐路で別の道を進んだならと今でも思うことがよくある。しかしその一つ一つに触れることは表題を外れているのでしない。ただ今こうしてここに開業していることが奇跡のように思えることがある。そして良くやったというよりなんとかここまでたどり着いたというのが実感である。自分の選択が正しかったか正しくなかったかは、あるいは運がよかったか悪かったかは次の一首で結論をつけることにする。

この岐路を選ばで来れば君にあえず君たちにあえず この路や良し

今長男が岐路にさしかかっている。医学部に行くのならどこに行くべきか、更にはその先大学に残るのか出るのか、研究するのかしないのか、アドバイスすることはたくさんある。結局は自身で決めることだけれど、私の経験も無意味ではないだろう。

2010年11月 箕輪 均 記